マグヌム☆オプス −狭間の記憶− 第6節「モーテル②」
マグヌム☆オプス −狭間の記憶− 第5節「モーテル①」
彼はゲストハウスを離れることにした。
行き先のあてがあるわけではないが、わずかな間に奇怪な出来事が頻発するような物件にいるよりはマシだろうと、例の道を先に進むことにした。
ゲストハウスを出ると、外の様子の違和感にすぐに立ち止まる。
ゲストハウスに入る前と何かが違う。
彼はそれが、建物と道の間にあるアプローチ部分が、褐色系のカラーコンクリートで舗装されているせいだとすぐに気づく。モーテルの前のその部分には駐車場スペースを示すための白線まで引かれていた。
コンクリートはすでに乾ききっているどころか、タイヤ痕などの擦り傷や色褪せ具合などの経年劣化と思える状態さえ確認できる。
まるでゲストハウスに入る前と出た後で、タイムスリップか微妙にズレた並行世界に来てしまったかような現象だが、彼は相変わらずこの現象にはあまり関心を示さず、舗装された地面の上を通って例の無数の轍でできた大道に復帰した。
道の先を見ると、例の藍色の歪んだ空が、以前より遥かに大きく見えた。というよりは近づいているように見えた。
そのせいなのか、そこにある大気の濃度が、以前よりもやや濃くなっているかのような、水に垂らした絵の具が渦巻いているかのようにも見えた。
彼が道沿いに視線をたどって、その行く先に目をやると、だいぶ先の方ではあるが、道はその歪んだ空間の中に消えているようにも見えた。
なぜだか今や歪みは空だけではなく地上にも達しているらしい。
彼は、あの空間の先に何かあるのでは? と考え、そこに向かって進むことにした。
今度の足取りに気だるさはなかった。むしろ焦りの見える落ち着きのない早足で道を進んでいった。
あたりをキョロキョロと伺い、警戒する。たまに振り返って、モーテルとゲストハウスがあるのも確認した。
だいぶ歩いて、やがて彼は、道がY字にカーブを描いて分かれている箇所にさしかかった。
左の道は例の歪みのほうへ、右の道は遠くに見える山の稜線へ向かって荒野をさらに突き進んでいた。
彼は右の道のほうに目をやる。右の道の空は雲ひとつなく爽やかに澄んでいた。
次いで左の道に目をやる。まだ少し道の先ではあるが、例の歪みがより色濃く見える。
しかし近づいてわかったが、その歪みはただ淀んだ藍色というわけではなく、歪みの背後からところどころ輝く光が木漏れ日のように微かに見え隠れしているようだった。
彼はしばらくの間、双方の道の先を交互に観察していた。
そして左の道に向かって、ようやく足を一歩踏み出しかけたところで、その足を止めた。
「……………………」
足が進まない。左の道を、行く気になれない。
彼は踏み出そうとした足を戻し、道の先にある歪みを見つめながら、その場にしばらく立ち尽くした。
「……何か……違うな……」
彼は胸のなかにある感覚に神経を研ぎ澄ました。
恐怖しているわけではないらしい。だが、とてもモヤモヤする。この先に進んでいったと想定したときに感じられる “気分” が非常に飽和的で億劫なものに思えた。
あの歪みの中に進んだとしても、何もない……
いや、例えそうでなくとも、進むべき次の一手としての選択肢を見誤っているような気がする……
「……こっちじゃないのか……?」
彼は右の道に視線を移した。
遥か彼方にまで伸びる道。その先には、それほど背の高くない山の稜線が地平に横たわっている。
彼はしばらく見つめながら、自分の感覚と感情の声に耳を澄ませた。
「……クソっ……無理だ、こっちも……何か違う……」
その時、彼はふと思い立った。
“引き返す” という選択肢が浮かんだのだ。
彼はその選択肢を選んだときの感覚と感情を、心を鎮めて感じてみた。
「……戻るのかよ……」
いま取るべき道において、引き返すという選択肢が唯一、彼の中でしっくりきた。もう、二股に分かれた道のどちらにも行く気にはなれない。
“引き返す” とはゲストハウスに戻れということなのだろうか? わからないが、今は来た道を戻るしかなさそうだと感じた。ゲストハウスには人がいる。まだもっと情報を集めるべきだったのか?
彼は自分がどんな目的を持っているのか……それどころか、そもそも目的自体があるのか、明確に認識もしていないはずだった。だが、なぜか “事態を先に進める” ということに関しては迷いがなかった。
そして、彼は再び歩きに歩いて、モーテルとその先にゲストハウスが建つ場所まで戻ってきた。
彼はやれやれといった感じで一息ついた。
ふと、ゲストハウスの前に1台の車が停まっているのが見えた。
「……あれは?」
その時、彼はゲストハウスのスタッフの男が、空き部屋の確認の電話があったと言っていたのを思い出した。あとから客が1人来ると。
「車か……」
ひょっとしてこれがここに戻ってくることになった理由か?
彼は少し足早になり、ゲストハウスへと向かって歩いた。
そして、彼がモーテルの前の道まで来てさらに歩いている時、急にバタンッというドアの閉まる音がした。
彼は反射的に立ち止まって、モーテルのほうに振り向く。
モーテルは2階建てで、それぞれの階に6ルームずつある。全ての部屋のドアが閉まっており、また、動く人影やその後の物音も聞こえない。
この場に戻ったときから、モーテルやゲストハウスの全景が視界に入っていたはずで、ずっと人影は見かけなかったはず……
しかし、車を発見してから常に注意は車に向いていたので見落としたのかもしれない。ひょっとして、今のは車の持ち主だろうか?
彼はそんな風にあれこれ考えた。
いずれにしても、彼は一旦ゲストハウスに行って、スタッフの男にいろいろ尋ねようと思い、あらためてゲストハウスへと歩みを進めた。
ゲストハウス前まで来ると、玄関前にはシルバーカラーのオープンカーが1台停められていた。
車種はポルシェのようだが、車に詳しくない彼は、ただ何となく高そうなオープンカーだなとしか思わなかった。
ゲストハウスに戻ってきた彼が玄関から入ってくると、相変わらずバーカウンター内に立つスタッフの男と、席に座るナイフの男がいた。
2人の男が彼のほうを振り向く。
「あれ? お客さん、どうしたの?」
バーカウンターのもとまで赴いた彼は、早々に車の持ち主がいないかリビングを見渡すが、そこには誰もいなかった。
ナイフの男が何やら咀嚼しながらニヤついて彼に話しかけてきた。
「なんだ兄ちゃん、もうヘバって帰ってきたのか? だらしねえな。それともまた幽霊にでも出くわしたのかい?」
ナイフの男はからかうように言ったが、彼は無視してスタッフの男に話しかけた。
「ちょっと訊きたいんだけど。表に停まってる車の持ち主と話たいんだけど、そのお客って今どこにいる? さっき隣のモーテルの部屋に入っていった人がいたけど、あの人がそうなのか?」
スタッフの男は彼の問いに不思議そうに答えた。
「……え? 隣のモーテルって?」
「隣にあるモーテルだよ。あれもアンタが経営してるんだろ? 俺がここを出ていく前に言ってたろ、客が1人来るって。さっきモーテルの部屋に入っていく人がいたけど、その人が車の持ち主なのか?」
スタッフの男とナイフの男は不思議そうに顔を見合わせた。
そして、スタッフの男はやや戸惑い気味に言った。
「いやぁ、ごめん、さっきから何のことだがよくわからないけど……ウチの宿泊スペースは2階だけだし、モーテルなんて隣には建ってないよ」
彼はスタッフの男の言ってることが理解不能でしばらく固まった。
「…………はぁ?」
「確かにお客は来る予定だけど、まだ来てないし……ああ、でも車で来るとは言ってたよ、なんでわかったの?」
彼は、からかわれているのかと怪訝な顔でスタッフの男とナイフの男に交互に視線をやったが、特にナイフの男も訝しげな顔で彼を凝視しているのを見て、ジョークではないらしいことを察した。
その時、彼はまた何気に2人のネームプレートに目がいった。
“Wor……”
“Dre……”
2人のネームプレートはもう一文字判別できるくらいに傷が薄くなっていた。
「あ、あの……そのお客ならそのうち来るはずだから、何か飲みながらでも待ってるかい?」
スタッフの男がそう言うと、彼はスタッフの男に鋭い視線を送った。
ゲストハウスの玄関前。
勢いよくドアが開け放たれ、彼がスタッフの男の首根っこをつかんで、引きずり出さんばかりの勢いで外に出てきた。
「あれは何だ?」
彼はそう言って、ゲストハウスの横にわずかに間を空けて建っているモーテルを、スタッフの男に示す。
痛がり怯えていたスタッフの男は、そこにモーテルが建っているのを目撃して、あっさり素に戻った。
「……あぁれぇ? どういうこと? いつの間にこんなの建ってたの?」
間抜けな声でそう言うスタッフの男に、彼はさらに玄関前に停められているオープンカーを示した。
「えっ!? お客さん、もう来てたの? ……じゃあ、あのモーテルをウチの宿泊施設と間違えて、先に部屋に入っちゃたのかな?」
「じゃ、あのモーテルには鍵がついてないわけだ。ずいぶん不用心な宿泊所だな」
「まあ、この辺はほとんど人が来ないからね」
「そういうことを言ってんじゃねえ……」
玄関ドアからナイフの男も顔を出して、モーテルを確認する。
「おお、こりゃすげぇ……」
そうつぶやくナイフの男へと振り返る彼とスタッフの男。
ナイフの男は言葉を続けた。
「この世界はいろいろ流動的で、いろんなものが出たり消えたりするがな、この辺りでこんな大きな変化がわずかな間に起きるなんてよ、まあずいぶんと珍しいな」
「この世界……」彼は視線を落として独り言のようにつぶやく。
「お前が現れたと同時にこのモーテルも現れた……なんかお前と関係があるんじゃないのか?」
彼はあらためてモーテルに視線を戻した。
気のせいか、再び空模様がうっすら灰色に染まってきたような気がする。
To Be Continued ➠
マグヌム☆オプス −狭間の記憶− 第4節「ゲストハウス③」
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マグヌム☆オプス −狭間の記憶− 第3節「ゲストハウス②」
2階への階段を上がりきると、折り返しの廊下がある。
廊下の途中、奥まったところにドアがある箇所が2つーーこれが個室なのだろうーー廊下の先にはやや広めの部屋があり、ここがドミトリーのようだ。
ドミトリーには廊下とを仕切るドアはなく、床はフローリングで、室内には貧相なパイプベッドが四隅に置かれている。
うち2つのベッドの間にはドアが1つあるが、手洗い場だろうか?
中央にはソファもないのにローテーブルが置かれ、あとは壁際に観葉植物が1つ置かれているだけの簡素な部屋だった。
部屋の2面の壁には大きめの窓があり、その先にはやはり広大な荒野の景色が広がっていた。
このゲストハウスに来る直前には、空が不気味に曇っていたはずだが、今、この窓から見えるかぎりの景色では、空は青く晴れ上がり、おなじみの根拠のない陽光がドミトリー内に注がれていた。
彼はドミトリーの入口に立ち、軍隊の兵舎のような部屋だなと思った。
ベッドの上にカラのショルダーバッグを放り、少しは体を休める “フリ” をしようとベッドに横たわる。
ギシッという乾いた音を立てる、いかにも安物な感じのパイプベッド。
彼はこの世界に意識が顕在化してから、感覚や感情というものが非常に曖昧に感じられていた。遠い昔に経験し、今は記憶の中だけにあるかのように。
これから何をすればいいのか?
そう考えながら寝返りをうつと、またベッドが音を立てて軋む。微動だにするだけでギシギシと神経に障る金切り音を絶え間なく発するベッドに、気がついたら彼は個室のドアを開け放っていた。
個室には木製のベッドにマットレスが乗っていた。
考えてみれば1階には挙動不審な2人の男がいて、うち1人はナイフを所持している。
鍵どころかドアさえないドミトリーを寝床にしようとしたのはどうかしてた。
一息ついて室内に入り、ドアを閉めて施錠した。
その個室も、これまたひどくユニークだった。
陽あたり不良……薄暗い……
正面の壁の上方に小さめの明かり取りの窓がある以外に窓はなかった。天井にライトもあるがスイッチを入れても明かりが灯らない。部屋自体も簡素で、フローリングに木製ベッドとベッドサイドテーブル、そして床がタイル貼りのバスルームが隣にあった。また、ベッドには枕と、掛け布団代わりに貧素なタオルケットが一枚設置されているだけだった。
オプションとしてバスルームこそあるが、雰囲気はまるで独房だ。
彼は気にはなったが、もはや面倒だったので、そのままベッドまで行ってそこに腰をかけた。
そしてしばらくの間、ただただ座りながらぼーっとしていた。
胸のあたりがモヤモヤする……漠然とした何かが……なぜ今この世界にいるのか、自分が何者なのか、そういったことにはあまり関心が向かなかった。
だが、捉えどころのない、ぼんやりとした微細な身体感覚が、彼に何らかの “到達地点” が存在することを訴えかけているようだった。
それがどこなのか、あるいは何なのか、検討もつかなかったが、要はその “何か” に向かえばいいのだろうか……?
彼は大きなため息をつくとおもむろに立ち上がり、疲れたような足取りでバスルームに備え付けてある洗面所へと赴き、両手を洗面台の縁にあずけると、うなだれながら再び大きな息を吐いた。
顔を上げると鏡の中には1人の男の顔があった。
つぶらな瞳で、漆黒の髪はベリーショートに整い、白い半袖Tシャツの上に、ネイビーカラーで非常にきめの細い麻の葉模様の和風の半袖シャツを前ボタン全開で羽織った男。
そして、右耳ーー鏡なので、つまりは左耳ーーには、開いた花びらが炎のような曲線を描く、スミレ色の蓮の花のデザインをしたピアスが揺れていた。
「……これが俺のツラか……」
彼がさらにため息を吐きながらうなだれた、その時、強烈な違和感を覚え、すぐに妙なことに気づいた。
ゆっくり顔を上げて、鏡の中の男の顔を再度確認する。
先程と同じ顔と服装の男がそこには映っている。
もう一度ゆっくり視線を下げて、実際に自分が着ている服装を確認する。
グリーン系のカーゴパンツ、裾からはローカットのマウンテンブーツのつま先が覗く。黒の半袖Tシャツ、そして胸元にはネックレス。ネックレスのトップは鏡の男のピアス同様、炎のような流線型の花びらをしたスミレ色の蓮の花のデザインだが、こちらは蕾のようで、わずかにしか花は開いていない。それ故に、それはより炎のように見える。
彼は、鏡の男に視線を戻し、凝視しながらネックレスのトップをつまんで持ち上げる。
鏡の男も同じポーズに、同じ呆然とした表情をしているが、鏡の男はネックレスは着けていないのでポーズは単に虚空をつまんでいる。
彼は鏡に顔を近づけ、頬を触れるなどしてじっくり観察する。左の耳たぶをしきりにまさぐりピアスをつけているか確認するが、鏡と違って自身はやはり着けていない。
だが、耳たぶを触るたびに鏡の中の男のピアスは、それに従ってあちこちの方向に動き回っている。
髪の毛に触れてみると鏡の男よりは長めで、耳元の上半分くらいまではかかっているようだ。ややウェーブがかっていて恐らく天然パーマなのかもしれない。
彼は少し背伸びをして鏡を覗き込み、鏡の男のボトムスをチェックした。
サイドラインの入ったチノ生地らしいショートパンツを穿いている。サイドラインと腰ポケットの内側とバックポケットは黒色基調の和柄のデザインとなっているようだ。
ひとしきり鏡のファッションチェックを終えた彼は、謎と不気味さが拭えないままゆっくりとベッドルームに戻っていく。その際、何度も鏡を振り返って確認するが、やはりそこには先程の鏡の男が、まるっきり同じ動作でこちらを振り返っている。
彼はこの世界に現れて初めて困惑気味だった。
ベッドルームに戻ると、彼は再びベッドに腰をかけ、やや放心状態で何も思考することなく、しばらくの間、薄暗い室内で空を見つめて座っていた。
そして、ぼそっとつぶやいた。
「寝よ……」
ベッドの上に横になると眠くなるまで時間の経過を待った。
だが、モヤモヤとした感覚が高い体温を維持しているようで、体を横にしていること自体に何だか息苦しさを感じる。
彼は何度も寝返りをうって、気持ちを落ち着かせるベストな姿勢を探したが、この寝苦しさは姿勢のせいではない気がしてきた。
床で寝るか……
彼は直感的に、床から離れているベッド上であることが寝苦しさの原因のような気がした。
ベッドから薄手のマットレスを外すと床に敷いてその上に横になり、枕に頭を沈め、タオルケットを腹の上に被せた。
彼の意識は次第にまどろみ、眠気のなかを漂い始めた。
彼は、この世界にも “眠る” という現象は一応存在しているんだな、と思った。
肉体の緊張が解ける感覚と心地よさを感じられることをやや意外に思っていると、まどろみのなかに朧気な映像が浮かんできた。
その映像はややボヤけた視点で、この部屋の開け放たれた入口の外に見える階段にフォーカスされている。階段は部屋の入口から見ると横向きに登ってくるカタチなので、厳密には階段の手すりとその向こうの階段出口が見えている。
なぜ、階段に意識がフォーカスされているのかはすぐにわかった。気配がする……何者かが階段を登ってきている気配がハッキリとわかった。
それも一歩一歩、ゆっくりと……
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マグヌム☆オプス −狭間の記憶− 第2節「ゲストハウス①」
玄関ドアを開けると同時に、ドアに備え付けられたベルが鳴る。
彼がそこに見た光景は、入口より続くわずかな通路、その先にある部屋。
部屋の左側にはバーカウンターがあり、カウンター内に男が1人立っていて、カウンター客席にも1人の男が座っていた。
予想に反して2人の人間がそこにいた。
彼は玄関ドアから半身を侵入させた体勢でフリーズしつつ、状況を把握しようと2人の男に交互に視線をやる。
入口から見える範囲の様相は木製の家具が基調の洋風のおしゃれなバーのよう。
部屋にいたるまでの短い通路の右側は壁で、左側にはレジカウンターがあり、レジカウンターの上には年季の入ったアンティーク調のレジスターが設置されている。
また、レジカウンターの天井からは小ぶりのハンギングプランターが吊り下げられ、さらに2人の男に挟まれたバーカウンター上にも、小ぶりのポットに植えられた観葉植物が置かれていて、空間を和ませる演出がなされていた。
2人の男は、玄関から内部を覗き込んでいる彼を無言で凝視している。
すると、カウンター内で背後の棚に軽く背を預けて立っていた男が、ぎこちない愛想笑いを浮かべながら声を発した。
「い、いやぁ、いらっしゃい……」
まだ現状把握中だった彼は、反射的に声をかけてきた男を見る。
しばらく見合ったあと、彼はゆっくりと音を立てないように入口のドアを閉めると、まだ警戒を解かずに一歩一歩、家内に踏みいった。
彼はバーカウンターの先端あたりまで来て、あらためて2人の男を一瞥すると立ち止まり、入口付近からでは右の壁に遮られて見えなかったエリアに目をやる。
カウンター内の男は続けて彼に声をかけた。
「……よく来たね」
彼は男の言葉は気にもとめずに観察を続ける。
そこはリビングルームのようだ。
玄関から向かって正面にあたるほうは全面ガラス張りの窓になっていて、表の広大な荒野が見渡せるオープンエアリビングとなっている。また、その窓のすぐ外側はウッドデッキのバルコニーになっているようだ。
リビング自体は、ウォールナットのフローリングに人の背丈ほどの観葉植物が置かれるなどのヴィンテージスタイルのインテリアで、中央のローテーブルを革製のソファが囲うように配置され、バーカウンターの対面にあたるリビングエリアの壁には薄型テレビが掛けられている。そして、天井中央にはシーリングファンライトが設置してあり、ファンの旋回がテーブルとソファの一帯に優雅な風を送風している。
「……泊まっていくかい? 休憩だけでも構わないけど……」
男が再びおどついた感じで声をかけてきた。
「……ぁあ?」
彼は、男を見ずに室内を観察しながら気の抜けた返事をした。
「ドミトリー(相部屋)は2階だよ。個室もあるけど……」
彼は、その言葉通りにテレビが掛けられた壁の脇にある短い廊下の先に、2階へ通ずる階段があるのを見つけた。
そこで初めて男のほうを振り返り、そして今度は男を観察しだした。
中年の小太り、白髪交じりで耳元が隠れるくらいの長さのおかっぱ頭、着ている前ボタンのシャツの袖口をたくし上げ、毛深い前腕が覗いている。胸元にはネームプレートがついてるが、すり傷だらけで何と書いてあるのかどうも読めない。だが、どうやらこのゲストハウスのスタッフかオーナーのようだ。
「……え? 何て?」
「あぁ……いや、その……お客かなぁと思って……ごめんなさい……」
「珍しいなぁ」
不意にバーカウンターの席に座る男が、ニヤニヤとした笑みを浮かべ、馴れ馴れしい口調で話しかけてきた。
彼は、バーカウンターの男に視線を移した。
「ここは滅多に客は来ないんだが。あんた自分探しの旅でもしてる途中かい?」
男は黄ばんだ歯を見せてニヤつきながらそう言った。その歯の一本は抜けている。
スタッフの男は助かったという感じで安堵の表情を浮かべる。
彼はバーカウンターの男を即座に観察した。
男はつなぎの作業服を着ていて、無精髭を生やし、額から頭頂部にかけて禿げ上がっていて、側頭部と後頭部の髪は長髪でざんばらに乱れている。あまり清潔感の感じられない風貌だ。
一見してあまり関わりたくない要注意人物な印象を受ける。
その馴れ馴れしい口調もさることながら、男の目の前のカウンターにはフォールディングナイフーー折たたみ式のナイフが置かれていた。
クルミの殻が散乱していて男が何やら口に放り込んで咀嚼していることから、男はクルミの殻を開けるためにこのナイフを使っているみたいだが、この男とナイフのコラボではクルミ以外のものも切開しかねない予感がしてくる。
カトラリーではないこのナイフを、公共の施設内でなぜ堂々と使っているのか。コイツもこの宿泊施設のスタッフか? いや、身なりや態度からすると、ただの常連客……?
「……聞いてるか?」
ナイフの男は、入ってきてからろくに言葉も発さずに部屋を見回してばかりの彼を訝しんで、そう尋ねた。
「……え?」
「……妙な奴だな……親父が困ってるだろ」
ナイフの男にそう言われた彼は、その男の胸元にもネームプレートがあるのを確認する……が、こちらもやはり擦り切れていて、何と書いてあるのか判別できない。
次いでスタッフの男に目をやる。
スタッフの男が自分に注意が向いたことにビクついていると、重ねてナイフの男が言った。
「泊まりなのか休むだけかぐらい、ハッキリしてやれ」
スタッフの男は慌てた様子で、
「ああ! いや、無理に泊まらなくても……何か飲んでいくだけならそれでもいい……んだけど……」
彼は思った……なんでコイツはこんなにキョドってるんだ?
「……いや、喉は渇いてないからいい……それじゃあ……とりあえず休ませてもらう」
「はぁ、そ、そう、よかった……じゃあ2階のドミトリーか個室、どっちでも自由に使っていいよ。ウチはお代もいらないから」
スタッフの男が胸をなでおろすように言うと、彼はその言葉に対する疑問を口にした。
「……お代?……お代って?」
「……いやぁ、知らないならいいよ……あ、今は他に客もいないし、予約も入ってないから、2階全部自由に使ってくれてかまわないよ。個室にはバスルームもあるから」
「ああ……ありがとう」
そう言うと彼は階段へ向かって歩き出す。
バスルームと聞いて、彼は自分が荒野を歩いてきて砂まみれであることを思い出した。
入浴ついでに服を洗ったほうがいいだろうかと考え、自分の身なりを見下ろすと、彼は急に足を止めた。
汚れていない……黒のTシャツの袖から覗く腕にも上下の服装にも汚れが見当たらず、砂粒1つ付着していていないことに気づく。
彼は自分のズボンの状態を確認し、頬に触れ、両手を幾度も翻し見て、さっきまで存在していはずの、自分が荒野を歩いてきた痕跡を探すが、やはり白く煤けた箇所1つ見いだせなかった。
そんな彼を、背後から2人の男が不思議そうに見つめていた。
ナイフの男が彼に声をかける。
「どうかしたか、兄ちゃん?」
彼はその呼びかけに振り向いて言った。
「……いや、なんでもない」
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